江戸時代の農民は年貢を納めていた!年貢と税の仕組み
2018.4.21
江戸時代の農民は年貢を収めることで現在で言う【税金】を支払っていました。農民は収穫した米を年貢として納めることになっていたのです。
では、年貢の取り立ては一体どのように行われていたのでしょうか。年貢を納める仕組みって?
そこで今回は、江戸時代の農民の年貢のシステムと年貢の納め方など、江戸時代の税制についてお伝えします!
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江戸時代の農民の年貢システムって?
江戸時代に行われていた、百姓が年貢を納めるという、今で言う税金納付のシステムですが、実際はどのような取立て法で行われていたのでしょう。
年貢について調べていくと、「五公五民」や「六公四民」といった言葉が出てきます。
これは、年貢率のことで「六公四民」であれば、6割が領主の取り分になり、残り4割が農民の取り分ということになります。
江戸時代の年貢の納め方は、領主ごとに異なります。
幕府領の村の一般的な年貢の納め方を紹介します。
- 村にある蔵へ年貢米を一旦保管する。
- 船で年貢米を運ぶ
- 江戸浅草の米蔵へ年貢米を納める
こうして納められた年貢米を役人が検地を行い、過去の収穫量の平均を割り出し、次の年の年貢額を決定していました。
江戸時代は、年貢は村単位で納めていましたので、領主取り分と農民の取り分といっても村全体の取り分の分配比ということになります。
江戸時代の農民の年貢について・貧しい農民もいた
江戸時代の村の大きさは、大体戸数が30~40戸くらいの規模でした。
江戸幕府は、豊臣秀吉の頃より年貢の取り立てを一層厳しくしたため、「村」が政治を行う上でもっとも小さい単位になっていました。
そして、江戸時代は「身分制度」でした。
江戸時代の人口の大部分を占めるのが「百姓」身分です。
村で暮らしている農民にも、様々な身分があり、農民の中でも年貢を納める責任をもつ百姓が一番上でした。
「百姓」の中にもいくつかの身分があり、農民はまず「本百姓」と「水呑み」という2つに分類されます。
年貢を払うという義務を強いられているのが「本百姓」、それ以外の農民、いわゆる食べるものがなくて水だけしか飲めないような百姓という意味の「水呑み」と区別されていました。
そして、時代が進むにつれて「水呑み百姓」が多くを占めてきます。
身分が一番下である「水呑み百姓」は、その日一日を小作や日雇いでやっとの生活をしていましたが、江戸時代中期あたりになると、下の身分だった農民の地位があがってきて、だんだん一人前の農民として認められるようになってきます。
その後は土地を借りて農業をする(小作農)かたわら、いろいろな仕事をして生活を支えるなどして暮らしも豊かになってきました。
江戸時代の農民の年貢の収め方
年貢は「村」の連帯責任で納めていました。
領主は、村に対して年貢米の納める割合を指定してくるので、庄屋は各個人に割り振ります。
江戸時代の年貢米はおもに船を使って運んでいました。
まず、村にある貯蔵庫(郷蔵)に、それぞれの農民が収穫した年貢米を運びます。
そこで保管した後、船着場である「津出場(つだしば)」まで運び、いよいよ船で年貢米を運びます。
幕府の米蔵は江戸浅草にありましたので、代官が立会いのもと、江戸浅草の米蔵へ年貢米を納入していました。
浅草の米蔵は67棟と大変大きく、江戸幕府の重要な蔵としてありましたが、現在蔵は一つも残っていません。
「蔵前」という地名がありますが、これは「浅草の米蔵があった地」ということで地名だけは健在です。
「年貢」とは現在の「税金」
現在でも、個人や企業が税金をおさめているように、江戸時代における税金システムは「年貢」でした。
江戸時代の年貢は、現在の税金にあたります。
現在の税金は、各個人の年収などによって税金納入額が決まりますが、当時は実際の収穫によって年貢額を決める検見法(けみほう)、もしくは、過去数年の収穫量の平均基づいた額をその年の豊凶に関わらず納める定免法(じょうめんほう)によって、幕府役人によって検地され定められていました。
はじめは検見法によって毎年行われていた検地法ですが、幕府役人を毎年派遣することなどにより費用がかさみ、また役人の不正も多くあったので、江戸時代中期ごろには定免法が一般的になったということです。
1680~1709年に江戸幕府5代将軍徳川綱吉の政権下で最後に行われた全国統一検地は「元禄検地」というものです。
一部、大名などによる検地が行われることがあったようですが、実際、検地を実施したのはかなり少数だったという記録が残っています。
江戸時代の税制とは
江戸時代におけるもっとも重要な基盤は「農業」でした。
その中でも、米は藩の財政状況を左右する大事な収入源でした。
そのため、藩には役人における精密な検地を行い、農民に年貢を取り立てを厳しく行っていました。
ただし、米が取れない一部の地域では、特殊な年貢賦課方法である「畑方免」という方法を採用したり、商品作物等の売却代金で他の村などから米を購入し納税用の年貢に充てるという買納制が一部例外的に認められていました。
しかし、この方法も本来であれば米の生産に問題のない地域でも買納制が広がりをみせはじめ、幕府も事実上、見て見ぬフリをするしかないという状況になりました。